理想的な1日の始まり

理想的な1日の始まりを考えてみる。

まず、目覚めたらすぐに起き上がる。携帯を見ない。

これだけのことをすれば、良い1日のスタートだと思う。

時間を見るせいで、もう少し寝ようと思ったり、寝すぎたと思い、沈んだ気分になる。

顔を洗い、散歩に出る。30分程度が理想。このとき、朝ごはんの果物を買ってもいい。

帰ってきたら、シャワーを浴び、髭を剃る。歯磨きをする。

そこから、読書をする。

少しずつ掃除もする。

平日は仕事に行き、休日は登山に行く。

あとは流れに任せる。

きっと、良い気分になっていると思う。

【仕事】後輩から質問されたときの対処法

私の中で、質問する人は以下の種類に分かれます。

① 自分で調べたうえで、この処理で間違いないと思いながらも、初めて行うので確認の意味で質問する人。

② 自分で調べ、ある程度は理解したが、一部分が理解できなかったので質問する人

③ 急な要件のため、調べる時間がないため質問する人

④ 自分で調べられるのに、自分で調べず、質問する人

私は、①~③の質問をしたことはありますが、④はありません。

しかし、最近、④の質問をする人が増えてきました。

なぜ彼らがそうするのか、いくつか考えられる理由をあげていこうと思います。

・何も考えていないから。

質問することによって、質問される人の時間を奪うと気づいていない。自分で調べた方が身につくと気づいていない。自分に最低限の知識がないと、本当に理解することができないことを知らない。

・マニュアルの存在に気づいていない。

・自分で調べるより、経験した人から聞いた方が早いと思っている。

③の場合ならいいが、それ以外は駄目だと思う。本人と社員のためにならない。これに慣れてしまったら、ずっと新人のような期間が長くなってしまうし、周囲の社員の負担にもなってしまう。

・自分で調べるのが面倒くさい

論外。傲慢な人間。他者への配慮がない自己中心的な人間。

とりあえず、理由はこれくらいでしょうか。

何も考えていなかったり、マニュアルの存在を知らなかったりする人には、自分で調べた方が身につくといったことや、自分で調べないことにより生じる弊害などを説明したり、マニュアルの存在を示すことにより、解決できるのではないでしょうか。

しかし、問題は、説明しても賛同が得られなかったり、仕事に対する責任感や他者への配慮が全くない分別のない人間だった場合です。

その場合、教えなくていいのではないでしょうか。もちろん、教えないために損失がひどくなるのであれば、教える必要はあるでしょうが、私が教えなくても、誰かに聞きに行くでしょう。もっとも、そんな人はあまりいないでしょうが。

幸い、私の職場は、チェック体制が整っており、損害がひどくなるようなところはないので、その点では安心です。

性格悪いと言われても、気にする必要はない

性格悪いと言われて、気にする人はいませんか?

私も以前は気にしていました。

いつもどおり生活していて、急に性格悪いとか腹黒とか言われたりする。

良い気はしませんよね。

ただ、何も気にする必要はありません。

その理由をこれから述べたいと思います。

 

① 良い悪いは、絶対的なものではなく、個人の評価にすぎない

良い悪いは、個人により、またそのときの状況により、常に変わるものです。

言ってしまえば、その受け取る人にとって、都合が良いかどうかです。

正解がないものに、思い悩んでもどうしようもできません。

 

② 悪口を言う人は、あなたに闘いを挑んでいることが多い

あなたの何かが気に入らなかったので、何か欠点はないかと粗探ししているのです。そして、欠点を発見したら、「性格悪いよね」などと発言するのです。

それに反応して反撃すれば、ずっと闘いが続くことになります。

言われても、「そうですか」と受け取ればいいのです。

反論する必要はありませんし、そもそも反論はできません。

その人がそう思っているのですから、私にはそのことを変えることはできないからです。

ただ、反論しなければ、周囲の弁えない人間は、事実なのだと勘違いすることがあります。

それが仕事に差し支えが生じたりするのであれば、一応、事実として自分がなぜそのように行動したのかを言うのもいいでしょう。

私は、一応言いはしますが、勘違いしたままでもいいと思っています。

勘違いした人は、ただ知らないだけだからです。気づきを得ていないのです。

なぜ、知らないことを、不快に思うことができるのでしょうか。

 

③ 人格否定をしているわけではない

あなたは性格が悪いなどと言われて、ひどく傷ついたかもしれません。

自分の全てが悪いと言われたと感じたかもしれません。

しかし、そうではないのです。

性格が悪いとは言っても、ほとんどは、ある特定の言動を指していることが多いと思います。

そして、ある特定の言動は、前述したとおり、言った人の都合の悪いことにすぎません。

悪口を言った人は、「あなたのその言動は私にとって都合が悪い」と言っているに過ぎないのです。

そして、その言動を改めろと、私に強制しているのです。

改めたほうが良い言動もあると思います。

しかし、言った人の自己中心的なものであることが多いと思います。

言った人は、無意識のうちに、世の中は自分が中心であると思っているのでしょう。

言った人もまた、気づきを得ていないのです。

 

いかがですか?

多少は楽になれたでしょうか。

苦しんでいる人の助けになれたなら、幸いです。

ぼんやりとした不安で死にたくなる

今日、退勤して晩御飯を食べた。

その最中から、ぼんやりとした不安が私を襲った。

ときどき、このようなぼんやりとした不安に襲われる。

何か私が悪いことをしたような気がする。

このとき、すごく生きるのがしんどいなと感じる。

こんな気持ちになりながら、これからの人生を生きていくのか、しんどいな。

人と関わるなかでこのような思いを抱くのであるなら、死んだ方が楽なのではないかと思う。

 

うっすら、私がこのような不安を持つときの傾向が分かってきた気がする。

①私が他者に不適切な言動をしたと、私が少しでも思ったとき。

②仕事で、失敗をしたのではないかと不安に思ったとき。

③他者から、悪い態度をとられたと私が思ったとき。

結局、私は、他者からの評価に対し、びくびくしているのか。

①,③は、私にはどうしようもないこと。

変えられないものだ。

②は、当たり前のことではないだろうか。

しかし、うじうじと考えてもしょうがないことだ。

悩んだところで、失敗はなくなるのか。失敗か成功か分かるのか?

失敗したかどうか悩まないためにも、仕事は丁寧に行おう。私は勝手に自分を急かしていることが多い。ゆっくりと仕事をすることを心がけよう。

 

このように考えていく中で、不安はゆっくりと薄くなっていった。完全に消えた時もあった。

無常。この言葉は真理だと思う。

不安の消え方は、まず、私が不安の原因をあげていくとき、かなり消えた。

原因が言語化されたことで、未知なるものへの恐怖が消えたのだろうか。

そして、いろいろと考えながら書いていくとき、完全に消えた時が来た。それから、また不安がきた。揺れ動いている。

 

原因と書いた時、ふと思った。私が不安に揺れ動かされる目的は何なのか。私は何を目的に、不安に思っているのか。

不安に思えば、私は、うじうじする。死にたいと思う。何も手につかなくなる。ということは、私の新たな挑戦を邪魔しようとしているのではないか。

私が勉強に手がつかなければ、私は新たな挑戦をすることができない。

しかし、私は、今まで通り生活することができる。

新しい生活になるのが、いやなだけではないだろうか。

私は、今までの生活に慣れているから、未知の生活になるのが怖いのではないか。

何も怖いことはない。ただ、したことがないだけだ。

死にたくなるとき

私は今、すごく死にたくなっています。

なぜでしょうか。ただそんな気分なだけでしょうか。

思い当たるのは、仕事がうまくいかなかったからです。

取引先に依頼の電話をして、その日程や、内容を一度に上手く伝えられなかったことに悔やんでいます。私のミスが発覚し、ミスしたことを悔やんでいます。

こう書いていくとき、もしかして、自分のミスを細かく分析し観察することが原因で、死にたくなっているのではないかと思い、一旦書くのを止めました。

すると、十分もしたら、憂鬱な気分はなくなりました。それから波はあるものの一番ひどい時と比べたらよくなりました。

なんであんな風に思っていたのか、そう思うようになりました。

過去や未来を深く考えず、今を生きることが大事なのかもしれません。

嫌な気分は、時間が解決します。じっと待ってみるだけでいいのかもしれません。考えてしまうと、精神の相互作用で悪化するだけです。

 

私の悪癖 先入観を持ってしまう

私は、よく先入観を持ってから、物事を話してしまいます。

よくあるのが、仕事で質問されたとき、これはこのパターンだろうから、こう言えばいいと、相手が質問の途中なのに、それを遮って答えてしまいます。最近、それが癖になってしまっています。7割くらいの的中率です。それが快感になっているのだと思います。話を短く終わらせて、効率的に仕事ができて楽しいと思うのです。

ただ、先入観を持って話してしまうと、勘違いしたまま話が最後までいってしまうことがあります。効率的ではありませんし、ミスが起きてしまうかもしれません。

そもそも、人の話を遮るのはあまりよいことではないと思いますので、まずは最後まで人の話を聞こうと思います。明らかに長話になりそうだと思ったら、その人の性格に応じて、結論だけを聞くなどします。そして、先入観を持ちやすいということを自覚します。先入観を持って聞くと、言葉を勝手に取捨選択してしまうので、言葉を適切に受け取ることができません。落ち着いて人の話を聞きましょう。

飲酒後のうつ

私は、飲酒して、数時間でも寝て起きた時、中程度のうつ状態に陥ります。

今回の飲酒量は、中ジョッキで生ビール1杯程度に、ハイボールが3杯です。

そこまで飲んでいるわけではありませんし、飲み会中はほとんど素面と変わりません。少し気分が盛り上がっているくらいです。

症状として、身体的には、少し動悸が早く、手が震えるような感覚がします。精神的には、わけのわからない罪悪感、誰かを傷つける言葉を言わなかったか、私の思った趣旨どおりのことを発言できたか、生きるのが辛い、死にたいというような思いです。時間が経てば、その気持ちはなくなります。

ただ、そのような気持ちになるには、最近はすべて飲酒後だけなので、そのような気持ちになるのは避けたいです。

この記事を書きながら考えているのですが、私が一番つらい気持ちになるのは、私が飲み会の時に他者から嫌われるような言動をしたのではないか、というような、他者からどう思われているかを気にしていることが原因だと思いました。

また、私の信念として、「他者と話すときは、私が言いたい趣旨の言葉を、適切に言わなければならない。そうでなければ、人間として劣等だ。なんのために言葉があるのか。」というものがあることが分かりました。

まず、前者は、飲酒で頭が素面の時より回っていないことも一因だと思いますが、アドラー心理学の課題の分離を心底理解していないから起こったことです。以前はしっかりと理解していたので、今ほど他者からどう思われているか悩むことはありませんでした。アドラー関係の書籍をここ3か月ほど読んでいないので、また読み直すことで治ると思います。

後者の信念は、反論することで治したいと思います。言葉を適切に言わなければならないという決まりはありません。そのような法則があれば、そもそも、適切に言わないことができません。ですので、言わなければならないことはないのです。確かに、適切に言ったほうがきれいだと思います。ですが、それだけです。それだけで私の価値は決まりません。私がいつも考えているように、ある物の一部分だけを見て、全体を判断するなんてことはできません。私は、いつも弁えていない人が多いと思っています。そのため、弁えていない人は、一部を見て全体を判断するだろうから、多数の人が、私の価値を低いものと見ることが我慢できないのかもしれません。ということは、私は、自分で自分の価値を高いものと考えていることになります。これは、仕事の要領がよいと他者から言われますし、自分で思っていることから端を発したのでしょう。少し話は戻りますが、私が弁えていない人たちに対して、下に見ているような気がしてきました。真理を分かっていない馬鹿な人たちと思っているようです。対人関係は、横の関係です。人に上下関係はありません。私の傲慢さが分かりました。意識を正そうと思います。しかし、私が傲慢だからと言って、私自身を責めることはしません。ただ、私は傲慢だったと受け入れるだけです。それしかする必要はありません。

もっとも、飲酒後のうつを直すのに一番効果的なのは、飲まないことです。当然のことですね。飲み会に行ってしまうと、流れで飲んでしまうことが多いので、飲み会に行くこと自体をやめたいと思います。