【読書】モール・ランブラン夫人への献辞【幸福論】

「気分の善し悪しはすべて、一時的なからだの出来事によるものだが、それをわれわれは異様に拡大して、そのことに神託のような意味を与えてしまう。そのような気分が最後に行き着くところが不幸である。」

その通りだと思う。

例えば、朝起きて、身体が重かったとする。そのことだけで今日一日は駄目な日だとか、こんなに身体が重いと憂鬱だ。とか身体が重いという現象を非常に重く見て、こんなに憂鬱な沈んだ気分にいる自分は不幸だと、認知がゆがんだ結論を出す。

うつ状態で、神経質な人は、結構な確率でアランが言うとおりではないだろうか。もっとも、正しく理解するには時間が必要だろう。

これがからだの出来事?たった一時的なからだの出来事が、こんなにも私を憂鬱にするはずがないじゃないか。そう反論するだろう。しかし、事実、そうなのだ。人間の力は大きい。何かの目的を持って、あるからだの出来事を出現し、目的を実現しようとするのだ。

うつ状態の人でよくあるからだの出来事で例えよう。会社員が、朝、起き上がれなくなる。原因は分からないが心がつらい。常にドキドキする。夜眠れない。日中、ボーっとすることが多い。すると、私はどう行動する?

現在、うつ病が広く取り上げられている。メンタルヘルスという言葉もよく聞くようになった。もしかしたら、私もうつ病なのではないか?病院に行き、症状を言い、うつと言われ、医師から休職するように言われる。これこそが、私の目的だったのだ。

これは私の実体験であるが、詳しくは、いつか別の記事にして掲載しようと思う。

 

「他の人びとの幸福を見ていらだつのは、あの連中はばか者で、盲目的な奴らだと判断するからだ。狂人は他人の考え方を変えさせることに無我夢中なのだ。」「怒りの進展を眺めているなら、怒りは実に滑稽である。」

 

幸福を見ていらだつのは、何が目的だろうか。あの連中はばか者で、盲目的な奴らだと思うのは、あの連中が自らの幸福にのみ目を向け、私の不幸を見ていないからだろうか。または、あの連中が幸福だと思っているのは考えが足りないからで、物事を考えていれば、不幸だと分かるものを幸福と勘違いしていることに対して思っているのだろうか。

 

狂人は他人の考えを変えさせるのに無我夢中。滑稽な話だ。他人を変えさせることはできない。変えられるものと変えられないものの違いを見分けることができるのなら、それは類まれな能力だと思う。変えるのは自分しかいない。

 

自分が幸福であれば、他人が幸福であっても何も思わないだろう。なぜ、自分が不幸な時、他人が幸福であったらいら立つのか。私がこんなにも不幸なのに、なぜおまえは幸せそうにいきているのかと思うのだろうか。私がつらそうにしていたら、あなたもつらそうにしていて当然だ、とでも思っているのだろうか。だが、私が幸せそうにしているとき、あなたが幸せそうにしているのが当然だとすると、それは違うような気がする。幸せであってはいけないと思っているわけではないが、不幸せな場合の方が、どこか嬉しいと思う自分がいないだろうか。あの人よりは上だという優越感のようなものを感じてしまわないか。

 

他者に、誰かより上に見られたいという気持ちがあるのだろう。他者の目を気にしているのだろう。しかし、実際は他者の目を気にする必要などない。比較する必要などないのだ。だが、人間は、通常、比較してしまうよう設計されているのだ。私としては人と比較して生きていくのはやめたいので、その考えをやめようと思っている。その考えをしたら、妄想していると思い、徐々に考えを矯正していきたい。

 

怒りの進展を眺めるなら、怒りは滑稽である。その通りだ。怒りの原因、矛先、時の流れをみれば、その帰結になるのは当然である。そもそも時間が過ぎれば治まる怒りであれば、それは全て大した怒りではなく、それこそからだの出来事によって生じた気分により生じた怒りと言えるのではないだろうか。